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欠落と獲得 - 映画『舟を編む』を観て

 人は進化の過程で体毛を失ったが、代わりに暖をとるための火を発明した。人は進化の過程で記憶力を失ったが、代わり数字や図形などの抽象的な概念を獲得した。ブレークスルーやイノベーションの裏には、必ずと言っていいほど欠落がある。

 人は欠落と獲得のバランスで生きている。たとえば社交性が欠けている人は芸術性を獲得し、芸術性が欠けている人は社交性を獲得する。サヴァン症候群が最たる例で、通常のコミュニケーションができない代わりに、並外れた能力を持つことがある。

 映画『舟を編む』の主人公もまた、欠落と獲得のバランスで生きている。

 『舟を編む』は2013年に公開された映画で、出版社に勤務する主人公が一冊の辞書を作る物語だ。辞書作りは非常に根気がいる作業で、現実にある三省堂の大辞林は企画から出版まで28年かかっているし、映画に登場する辞書「大渡海」も13年かかっている。

 辞書は語釈と用例の積み重ねだ。映画にも登場するが、「右」という単語を一つとっても語釈が幾つもある。「アナログ時計の1時〜5時」「西を向いたときの北」など、語釈によって辞書の特色が決まる。

 用例は生活の中に潜んでいる。言葉は生まれては死んでいく。「ナウい」は死んだが「ヤバい」は生きている。このようなナマの言葉を記録するために、辞書の編纂者は用例カードを持ち歩く。この用例と語釈をコツコツと組み合わせて、一冊の辞書を作る。辞書は「編む」という言葉がよく似合う。

 映画の主人公は、この根気のいる作業を好んでする。大学の専攻は言語学。人と喋るのが苦手で、外見も目立たない。その代わり細かい作業は得意で、長時間続けられる。松田龍平の役作りが絶妙で、主人公の両極端な個性を見事に演じていた。

 映画の中で主人公は欠落していたものを徐々に獲得する。部下ができ、家族を持ち、次第に社交性を獲得していく。宮崎あおいとの掛け合いは思わず笑ってしまう。同僚のオダギリジョーはハマり役だ。松田龍平の怪演。辞書を編む人間ドラマ。欠落と獲得の物語。

 気は早いが、今年のベストに入る傑作だった。


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